2009年6月10日水曜日

人生は偶然か、必然か?

1. 恩師の墓参り
 この処、所属学会や母校で長いことご交誼頂いた先生方が矢継ぎ早に亡くなった。流石に今度は自分の番だと観念し、一番世話を焼かせた恩師の墓参りを思い立った。場所は藤沢市市営の墓苑で内部は広々とゆったりとしている。ここと比較すると私営の墓苑は何故か狭苦しい感じがする。お目当ての墓石には単に「憩」とだけ彫られており、何々家という名はない。どうも生前に用意したらしい。
 さすが、振動工学という新しい学を起した学者らしく、反骨の気風が満ち満ちている。周囲を見渡すとそういう墓が目立つ。恩師は九州に実家の墓があるそうだが、遠隔地では家族の墓参りも儘成らぬ。近間にあれば家族の憩いの場所として役立とう。

2. 何々家代々の墓という考えはもう古い
 昔の「家」という考えは死んだ親父に吹き込まれたが、もうそんな時代ではない。我が家では娘は嫁いで子供を育てているが、息子は時代を反映して頼りにならぬ。我が家の未来は無縁仏になるとはっきり決まった。さあそうなると何故か寂しい。何処かに同じような断絶予定の「家」があれば、一緒の墓に入りたいのだが。次の時代はそういう方向ではないだろうか?キリスト教会のように同じ考えの同志で一つの墓に入る。例えば「日本の公害を糾弾する会」の墓、とか、ご贔屓のサッカーチームを応援する会の墓とか、その方が楽しい。
或いはヨーロッパの有名人の墓の様に、個人の単立の墓とか、夫婦並んで二つ作るとか独創的なアイデアがあっていい。正にこういう路線は先代からの「縁」を断ち切る考え方だから寺には嫌われるだろう。しかし無縁仏で何が悪い。人生とはそもそも自分の意の儘にならない、つまり自分で計画できない営為なのだ。もし計画可能であるとすれば人生に失敗と挫折は付きものだから、自分を責める呵責の念に耐えられまい。自分の過失を探しだして自分で責めるなんて。

3. この世の出来事は偶然の連続である
 話しは逸れるが、最近「相場心理学*」という本を読んだ。題名が「相場であり且つ心理学」だから前半はかなり胡散臭いが、中頃から確率論的思考の話が出てきて俄然面白くなる。あるカジノでブラックジャック遊びの収益に財政を頼る話がそれである。プレイによる胴元の収益は一律に何%ではなく、ある確率的優位性が期待されるだけである。だから運が悪ければ胴元の収入は大幅に減る筈だが、実際には反対に確率理論における「大数の法則」により年間を通じて収益は安定しているという。

 確かに偶然が支配する事象に於いても、大きな視点でみれば確実な法則性が認められる。例えばいくら少子化といっても男と女の生まれる率はほぼ半々で、これは神様が逐次受精を制御した結果ではない。不思議に長い間一定の比率を維持しているのは神秘的である。つまり男と女の産み分けには強い関係性が認められる。

4. 人生もカジノである
 人生が一つの賭けであると考えれば気は楽だ。たった一回限りの人生をどう生き抜いたか、墓はその記念塔であり、残された者の憩いの場所である。何も永遠の存在を希求する場でもない。仏教の正しい教えはこれに近いものだと思うが、無縁仏なる奇妙な考えは何処から来たのだろうか?

 独立の偶然的事象の連続が人生があるとすれば戒名も俗名も要らない、自分の魂が「場所を得た」と解釈すれば、その地こそ永遠ではないか。更に明日からの残された時間も、もう他人が気にならなくなる。何故なら人生の規範が天に代わるからだ。反対に科学が説く様に、この世の全ての事象には確定的な関係性が存在するという前提ほど人間を苦しめるものはない。
 しかしジェームスワットを生み出した英国の経験は少し違うらしい。彼らは因果関係説よりも確率論的なリスク管理の国際規格を熱心に推進しているから。
 
引用文献:

* マークダグラス「ゾーン:相場心理学」

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