2008年5月27日火曜日

日本人の災難を眺めるもう一つの視点~~日本語には「動き」を表す動詞がない。

1. 静と見るか、動と見るか?
永年、振動を初め、制御システム等の自然現象の動的側面を研究の対象としてくると、如何に人間の脳が「動くもの」の把握に不得手であるかが実感として理解されてくる。このことを哲学者アンリ・ベルグソンは非常に巧く表現している。曰く

知性は常に運動を静止の形でしか捉えることが出来ない。ところが自然現象や生命は絶え間ない運動そのものに他ならない。別の見方をすれば「アキレスと亀」や「ゼノンの飛矢不動論」の例は決して詭弁ではなく、人間の知が動的現象の把握に対して本質的に不得手であることを示す雄弁な論証なのである。

確かに直感的に考えれば、如何なる動きも一瞬がある筈だからその「一こま一こま」の写真撮影を続けていけばそれが動に変換されるのだ、と。これは映画の原理であって巧みに人を騙す具体例であるが、全く違う。つまりこの説ではどの様な動的現象にも静の一瞬がある筈だから、全ては静的な問題に還元されると言うのだ。一見正しそうだが、実験を数多く続けていると実際は全く違う。つまり静的な世界観では人間の頭に簡単に「妄想」を引き起こし、多くの災難・災害の元凶となりやすいのである。

2. 工学の世界での具体例
学生時代に航空力学の権威で岡本哲史教授という先生から流体力学の講義と実験を指導された事がある。先生は二次元流れの水槽実験において流線の態様を静的及び動的側面に沿って注意深く観測してみなさい、と言われた。「流れ」なんてものは見方に依存しないし、どう変えて見ても一つだろうと思っていたので、このご指導の意味は良く分からなかった。
後年、実時間最少自乗推定法(カルマンフィルター)に出会い、これをコンピュータに組み込んで突発的な異常の検知に応用してその威力に感得したが、この時「動的と静的計測との違い」が深く理解できた。計測値を単に平均する伝統的な手法では異常の急激な変動を捉えることが出来ないのである。先に本ブログでもとり上げた自励振動の検出のような簡単な実験でも失敗に帰するのが常である。
恐らくは旧ソ連の原発の爆発事故の際も、担当の技術者は核分裂の進行を既往の計測手法を以って把握できると楽観視していたのだろう。僅かな誤判断が結果として大変な惨事を招いた。

振動が衝撃に変わると更に始末が悪い。地震衝撃の様なものについて言えば、衝撃測定の正確さを較正する確実な方法はないから、何ガルと言ってもそれがどれだけの破壊パワーを有するのか全く分からない(註1)。振動衝撃測定の重要性に鑑み、米国・英国では独立の研究所もあるのに、日本では小メーカの技術者が頑張っているだけだから安全技術の向上において些か物足りない(担当者の努力には敬意を表するが)。

鉄道事故では福地山線脱線の前哨事故となった信楽鉄道の信号機誤動作事故がある。当時の審理において、安全技術に全くの素人である裁判官が担当したというのが悲劇の始まりであった。
これからは新幹線がどれだけの災害リスクを乗り切れるかが心配である。一番の弱点は突発的な地震による脱線であるが、大地震の発生頻度は非常に低く心配するほどのリスクはないが、あの地震緊急停止システムはもう少し改善の余地はある。

3. マーケット世界では
株式、商品、金融を始めてとする市場の世界では動的な予測が不可欠である。つまり静的世界では正確さが身上だが、動的世界では信頼できる予測が最も重要になる。よく先物の世界にのめりこんで一財産を失う話が後を絶たないが、ほとんど失敗例はその商品価格の価格レベル、即ち「安いか高いか」の判断に捉われて大失敗をする。むしろ市場の世界ではどちらへ動いているかが重要であって、価格は問題ではない。マーケットにおいて価格は方向性をもったベクトルであって、その方向を予測する独特の時間軸と指標が必要になる。

4. 今次の大戦での惨劇について
戦後の苦しい時代を生き抜いて来た世代としてどうしても大戦における敗北の原因について触れざるを得ない。特にミッドウエイ海戦について言えば、多くの論点が研究され指摘されている通り、海軍には情報将校が不在であったとか、前線基地の位置の問題とか納得できる説が公表されている。
しかし動的な判断という点についてはこれを指摘した説は少ない。当時といえども事前訓練において「If then else ルール」形の図上演習は何回もやっていたらしいが、敵軍の意図を探るという訓練が無かった様に見受けられる。現実に一度戦闘に入れば不測の事態が連続して起きるのは戦争の倣いである。だからこそ「何時予備軍を投入するか」という予測の判断が重要になってくる。これに対して「もしこうなったら、こう出る」形の事前研究では妄想が入り易く、適確な対応が出来ない。
以上の様に、人間は本質的に時間を捉えられないから、時間を越えて行動に出ることも出来ない。そうかと言って事実関係を確認してからでは遅すぎる。

5. 日本語の中の動的表現
目の前に起きている事象を静の連続と見るか、動と見るかは言葉の問題である。いずれの国の言語もこの点について完璧ではないと思うが、ラテン語系(伊語等)における半過去が動的表現としては一番適しているのではないだろうか。例えば 「pensavo 」を「ずーと考えてきた」と訳せば適訳だが、日本語では「ずーと」という副詞が必要になる。ここでは今という時点しか存在しない。英語では現在完了形がこれに近いが、ぴったりという訳ではない。私見では日本の国語学者の手法はいわば言語歴史学であって、ラテン語や英語と比較してどうなるかという発想がない。やはり民族の悲劇と国語とは密接な関係があると思うのだが。この難問は国語を英語に切り替えれば全て解決するという様な話ではない(註2)。
 翻って、日本の和歌の多くを眺めてみるとやはり自然の一瞬を眺めるという詩情がそこにあり、写真撮影的である。唯一の例外は源実朝である思うが、皆さんはどうお考えか。

これからの激しく動く世界に対応するには国民が予測する能力を身につけることであり、その基本的な能力は母語である日本語を仲介にする以外に方法がない。


註1:しかし定常値の5倍程度を見ておけば十分だろう。
註2:宗教面でいえば動の把握のベースとしてはギリシャの智を受け継いだキリスト教の方がやや分が良いと思うが。例のアテネの丘でのパオロの演説はこの事を述べているのではないか。静的事実はいずれ偶像化する運命にある。